ADR–現地株パリティ裁定の実践大全:為替・配当・借株・清算差・デポジタリ費用まで織り込む

アービトラージ

本記事は、ADR(American Depositary Receipt)と現地株のパリティ裁定を、個人投資家が再現性高く運用することを目標に、理論・オペレーション・執行・ヘッジ・バックテスト・検証体制までを端から端まで解説するものです。単なる等価式の紹介に留めず、税引後配当・借株レート・デポジタリ費用・清算差・執行スリッページ・イベントといった実務要因を式に落とし込み、bp(ベーシスポイント)で管理する運用フレームを提示します。

1. 戦略の射程と前提(なぜ個人で成立するのか)

ADRと現地株は同一企業のキャッシュフロー権にリンクします。機関投資家は大規模裁定で乖離を圧縮しますが、時間帯のズレ・借株在庫の制約・配当税務・細かなコストが作る局所的ギャップは取り残されます。個人が狙うのは、分単位〜数日単位の中頻度裁定であり、以下の特性を狙います。

  • 現地市場の休場/薄商い時間帯に米国サイドだけが動いた時の遅延
  • 配当権利付き/落ち前後での税引後価値のズレ
  • 特殊在庫化による一時的なショートコスト上昇に伴うパリティ歪み
  • ADR比率変更・スピンオフ・分割等で過去系列の連続性が切れた直後の誤配

以上は情報の入手と式の整備で再現可能であり、1トレードあたり20〜80bp程度を狙う現実的な期待値設計が可能です(あくまで設計の話であり、将来の成果を保証するものではありません)。

2. パリティ式の厳密化(等価価格と調整項)

ADR1枚が現地株R株に相当すると定義します(例:R=1,2,5,10 等)。為替はADR通貨→現地通貨のFXで統一します。基本形は次の通りです。

Par_local   = Price_ADR × R × FX
Adj_div     = PV( Div_local × (1 - t_local) ) - PV( Div_ADR × FX × (1 - t_ADR) )
Adj_borrow  = Notional_short × ( r_short - r_rebate ) × (HoldDays/365)
Adj_fees    = Notional_total × ( fee_bp / 10,000 )
Adj_depo    = ADR特有のデポジタリ費用 × R × FX(配当時の控除も含む)
Adj_clear   = 受渡/資金繰り差の金利相当(資金拘束の時間価値)

Eq_local    = Par_local + Adj_div + Adj_borrow + Adj_fees + Adj_depo + Adj_clear
Misprice_bp = ( Price_local - Eq_local ) / Eq_local × 10,000

運用上は Misprice_bp ≥ Entry で片側ショート/ロングを同時構築、Misprice_bp → 0でクローズします。Entry/Exitは後述のボラティリティ連動で動的にします。

3. 税引後配当・デポジタリ費用の実務

配当は税引後ベースかつ同一通貨で比較します。ADRはデポジタリ銀行の費用(ADR fee)が配当支払時に控除されることがあり、これは1枚あたりの固定セントまたは保有割合連動で差し引かれます。現地株側も源泉税率に従って課税後の受取額にします。支払通貨・時点が異なれば、割引現在価値で合わせます。

PV(配当) = 配当額 × (1 - 源泉税率) × exp(-r_dom × Δt)

複数の配当イベントが保有中に跨ぐ場合、それぞれを加算します。スクリップ配当やオプション配当は、受領手段で税務が変わるため事前に前提を固定します。

4. 借株市場のメカニクス(GCとSpecial)

ショート側には借株料(または現金担保のリベート控除後レート)が発生します。一般担保(GC)水準は低いですが、需給逼迫でSpecial化すると年率が二桁に跳ねます。裁定ではエントリー前の在庫確保(Locate)と、在庫切れ時の強制クローズ条件を明確化します。

BorrowCarry = Notional_short × (r_short - r_rebate) × HoldDays/365

短期勝負(数日)ならCarry負担は軽微ですが、配当跨ぎやイベント跨ぎは一気に重くなります。借株レートのシナリオを複数用意し、Entry閾値に上乗せします。

5. マイクロストラクチャと時間帯リスク

日本市場(現地株)と米国市場(ADR)の時間帯は重なりが限定的です。板厚・スプレッド・ティックサイズ・呼値ルールの差がスリッページを生みます。設計として、時間帯ごとにEntry閾値を上げ、米国寄り・現地前場寄りでの執行は注意度を引き上げます。

6. 検出アルゴリズム(ボラ連動・在庫連動)

Mispriceをbpで算出し、ボラティリティ(実現/インプライド)在庫状況で閾値を自動調整します。

Entry_bp = k0 + k1 × RealizedVol_20d + k2 × SpecialDummy + k3 × EventRiskDummy
Exit_bp  = min(α × Entry_bp, 固定値)

SpecialDummyは借株レートが閾値超過時に1、EventRiskDummyは決算・配当・比率変更前に1とします。これにより、リスク上昇局面では自然にハードルが引き上がります。

7. 執行アルゴ:同時性と為替ヘッジ

  1. 同時成行(クロス):リッチ側を先取りショート→即Cheap側ロング。板監視で複数枚に分割。
  2. 指値・参加率制御:参加率(Participation Rate)を30〜50%に制限し、過度な価格インパクトを抑制します。
  3. 為替ヘッジ:FXスポット/先物/NDFで名目為替露出を即時にゼロ化。短期は自然ヘッジでも可ですが、イベント時は厳格にヘッジします。
  4. スリッページ予算:1トレードあたりの許容bpを事前に定め、発注時に残余bpをリアルタイム更新します。

8. 保有・クローズのルール

クローズは以下の複合条件の最初にヒットしたもので実行します。

  • Misprice_bpがExit_bp以下(収斂達成)
  • 借株レートが閾値超過(Carry悪化)
  • イベント前のタイムアウト(n営業日前)
  • ボラ急騰でEntry_bpが動的に引き上がり、現保有の想定リスクリワードを下回った場合

9. ケーススタディ(数値で読む3例)

9.1 標準ケース(R=1, GC、非イベント期)

現地株 = 12,800 JPY
ADR    = 81.00 USD
USDJPY = 158.50
配当   = 現地70 JPY(税後63)、ADR0.45 USD(税後0.405)
借株   = 3%/年、保有5日(ショート側にのみ)
費用   = 往復30bp、デポジタリ費用=0.02 USD/ADR(配当時)
Par    = 81×158.5=12,838.5
DivAdj = 63 - (0.405×158.5) = 63 - 64.2 = -1.2
Fees   = 12,838.5×0.003 = 38.5
Depo   = 0.02×158.5 = 3.17
Borrow = 12,800×0.03×5/365 = 5.26
Eq     = 12,838.5-1.2+38.5+3.17+5.26 ≈ 12,884.2
Mis    = (12,800-12,884.2)/12,884.2×10,000 ≈ -65.2bp → 現地ロング/ADRショート

9.2 配当跨ぎ(ADR側の配当が大きい)

ADR配当が大きいとDivAdjはマイナスに振れ、ADRショート側のコストが嵩みます。権利付き最終日前はEntry_bpを+20〜40bp上げ、ショートを避けます。

9.3 借株Special化

借株年率 18%、保有7日 → Borrow ≈ Notional×0.18×7/365
Mispriceが+80bpでも、Carryで相殺される可能性大 → Entryを120bpに引上げ

10. バックテスト設計(落とし穴を潰す)

  • 系列整備:ADR比率変更・株式分割・スピンオフをイベントで分割し、別系列として扱います。
  • 先見バイアス除去:配当・借株レートは告知時点の情報でのみ反映。配当実績で後知恵を入れない。
  • コスト過大評価:手数料・スリッページ・借株は実運用より厳しく置く(例:+10〜20bp上乗せ)。
  • 板再現:参加率・指値の不出来を再現(部分約定、キャンセル、滑り)
  • サブサンプル:通常期/決算期/配当期/高ボラ期で性能を分解。
勝率・平均獲得bp・保有日数・最大DD・Turnover・容量(1日の許容回転額)を主要KPI化。

11. オペレーション設計(口座・受渡・資金繰り)

  1. ADR用の米ドル建て口座と、現地株用の現地通貨口座を用意します。
  2. 受渡(T+2等)の差で資金が一時的に片側拘束される点を想定し、短期の金利コストをAdj_clearに入れます。
  3. ブローカーとの借株在庫とレートの確認は発注前に行います(Locate番号の記録)。
  4. 配当の受領通貨が異なる場合は、実際のFX変換手数料もAdj_feesに含めます。

12. 監視ダッシュボード仕様(必要な指標)

  • Misprice_bp(リアルタイム)/閾値(Entry/Exit)/残余bp(コスト控除後)
  • 在庫:借株年率・在庫量・Specialフラグ
  • イベント:配当日、決算日、比率変更予定、休場情報
  • 執行KPI:参加率、平均滑り、VWAP差、Fill率
  • ポジション:通貨別名目、為替ヘッジ残、キャッシュ拘束

13. リスク整理(15項目)

  1. 借株在庫切れ・レート急騰
  2. 配当税務の取り違え(税率・控除・デポジタリ費用)
  3. 為替急変・ヘッジ漏れ
  4. 決算ギャップ・ガイダンスショック
  5. 比率変更・スピンオフ・合併
  6. 清算・受渡の遅延や資金拘束
  7. ブローカーの規制制限(空売り規制、アップティックルール)
  8. 板薄による約定不能・誤発注
  9. ハードフォーク的な権利(希少、扱い不確実)
  10. 配当通貨差による為替コスト
  11. デポジタリ手数料の事後控除
  12. 税務更正・遡及処理
  13. データ欠損・誤系列による誤検出
  14. オペレーションエラー(片側のみ約定)
  15. 想定外の市場休場

14. よくある落とし穴と対策

  • 落とし穴:ADR比率の古いまま運用 → 対策:日次で比率同期、履歴で系列切替。
  • 落とし穴:配当の税後換算を忘れる → 対策:税率テーブルを銘柄マスタに持つ。
  • 落とし穴:在庫を取らずに発注 → 対策:Locate必須フラグ。
  • 落とし穴:スプレッド縮小前に板が消える → 対策:参加率制御+段階指値。

15. 拡張:GDR、二重上場、香港経由

GDRや二重上場(米国・英国・香港など)のクロスも同様の枠組みで扱えます。取引規制・通貨規制・保管振替可否の差をAdj_clear/Adj_feesへ反映します。

16. 実装テンプレ(設定→計算→執行)

# 設定 YAML 例
symbol: XYZ
ratio_R: 1
fx_pair: USDJPY
fees_bp: 30
borrow_rate: 0.03
rebate_rate: 0.00
hold_days_max: 5
entry_bp_base: 40
exit_alpha: 0.5
event_buffer_days: 2

# Misprice 計算(擬似)
Eq_local = ADR*R*FX + DivAdj + Borrow + Fees + Depo + Clear
Mis_bp   = (Local - Eq_local)/Eq_local*10000

# 閾値
Entry = entry_bp_base + 1.5*RealizedVol20d + 40*Special + 25*Event
Exit  = min(exit_alpha*Entry, 60)

# 執行
if Mis_bp <= -Entry:   # 現地割安
    short(ADR); buy(Local); hedge_fx()
elif Mis_bp >= Entry:  # ADR割安
    short(Local); buy(ADR); hedge_fx()

17. 日次・トレード前チェックリスト

  • 比率・配当・税率・デポ費用・在庫・借株レートを更新したか
  • イベントカレンダー(決算・配当・休場)を反映したか
  • 閾値が当日のボラ・在庫状態に連動して再計算されているか
  • 執行口座・為替ヘッジ手段・資金繰りを確認したか
  • ストップアウト基準(在庫切れ、レート急騰)が明文化されているか

18. まとめ

ADR–現地株パリティ裁定は、「小さな要因」を全て式に載せてbp管理することで、再現性のあるリスクリワードに変換できます。重要なのは、税後配当・借株・デポ費用・清算差の4点を常に最新化し、時間帯・イベントに応じてEntryを調整する運用規律です。小規模で始め、ログとKPIで改善を回すことを推奨します。

コメント

タイトルとURLをコピーしました