本稿では、日本の夜間取引(PTS)と米国上場の日本企業ADR(American Depositary Receipt)との価格乖離に着目し、翌営業日の寄り付きまでに収束しやすい「短期の歪み」を個人投資家でも狙えるよう、具体的な手順と判断基準を体系化します。対象は東証上場の大型〜準大型で米国ADRを持つ企業(例:トヨタ、ソニー、任天堂など)です。専門用語は丁寧に定義し、初学者でも今日から実行できる現実的な運用プロセスだけを残しています。
この手法の一言サマリー
「米国市場で動いたADR価格×為替で算出した東京の理論価格と、夜間のPTS価格にズレ(乖離)が生じたら、そのズレが翌日の東証寄り付きまでにある程度縮む傾向を狙う」。完全裁定ではなく、収束“傾向”の統計を使う短期トレードです。
前提と用語
ADRとは
米国市場に上場される日本企業の受益証券で、原株(東証上場株)を一定口数束ねた「受託証券」です。換算比率(ADR比率)が定義され、たとえば「1ADR=0.25株」「1ADR=1株」など発行体ごとに異なります。
理論価格(東京想定価格)
米国ADR終値(または時間外)に為替(USD/JPY)と比率を掛け戻して、日本円での1株あたり理論値を求めたものです。
<東京想定価格> = <ADR価格(USD)> × <ADR比率換算> × <USD/JPY>
PTS(私設取引システム)
東証の立会時間外に売買できる市場。夜の米国市場動向を織り込もうとする参加者が価格を付けるため、理論価格との差が生まれやすい。
乖離率
乖離率 = (PTS価格 − 東京想定価格) / 東京想定価格
プラス(割高)なら「売り優位」、マイナス(割安)なら「買い優位」のシグナル候補になります。
なぜ収束が起こるのか(直観)
- 翌日の東証寄り付きで、多くの投資家が共通の理論値を参照して指値を出すため。
- PTSは参加者と板厚が限定的で、一時的な需給でズレが拡大しやすい。
- 大型銘柄ほど情報裁定が機能し、過剰な乖離は薄まりやすい。
準備(アカウント・環境)
- PTS対応の国内証券口座(例:夜間取引が可能な証券)を用意。
- USD/JPY(為替)を参照できる環境(スマホアプリでも可)。
- ADR比率のメモ(銘柄ごと固定。口座の銘柄ページなどに記載)。
- スプレッドシート(Excel/Google Sheets)で簡易シグナル表を作成。
シグナル設計(初心者の安全側ルール)
対象銘柄
- 時価総額が大きく、出来高が豊富な銘柄(スリッページを抑える)。
- 米国にADRがあり、比率が明確(1:1, 1:2, 1:0.25 など)。
シグナル生成
- ADR価格(USD)とUSD/JPYを取得。
- 東京想定価格=ADR×比率×為替 を算出。
- PTS最良気配または直近約定でPTS価格を確認。
- 乖離率=(PTS−想定)/想定 を計算。
エントリー閾値(目安)
- 買い:乖離率 ≤ −1.0%(割安シグナル)。
- 売り:乖離率 ≥ +1.0%(割高シグナル)。
初心者は±1.0%を目安に、まずは割安の「買い」だけに絞るのが無難。売り(信用売り)は制度と手数料の理解が必要です。
エントリーと手仕舞い
エントリー(夜間PTS)
- 買い:割安(−1%以上)。成行は避け、板の厚みを見て指値。分割約定を許容。
- 売り:割高(+1%以上)。はじめは見送り可。経験が付けば少量から。
手仕舞い(翌日の寄付き〜午前中)
- 基本:翌日の東証寄り付きで成り行き手仕舞い。
- 保守:寄り後の5〜30分でVWAP付近まで粘る戦術もあり(欲張りすぎない)。
- 損切り:寄りで逆方向に走ったら即撤退。想定外ニュースの可能性。
手数料と実効スプレッド
期待リターンは乖離率に比例しますが、実効スプレッド+手数料+税で目減りします。初心者は「片道の表面的な手数料」だけでなく、約定価格の滑り(スリッページ)を必ず控えめに見積もること。目安としては、±1%の乖離へは片道0.15〜0.25%相当の摩擦が乗る前提でサイズを決めます。
為替の扱い(重要)
理論価格はUSD/JPYに依存します。夜間に為替が大きく動くと翌朝の寄りで更に織り込みが進むため、乖離の縮小速度に影響します。初心者は為替が急変していない日に限定して始めるのが安全です。
銘柄別の実務ポイント
- 比率1:1型:直感的で計算が楽。誤差要因が少ない。
- 分数比率型(例:1ADR=0.25株):価格×4で換算、桁をよく確認。
- 売買代金の厚い銘柄:板が厚く、PTSでも大口が出やすい。
簡易バックテストのやり方(スプレッドシート)
- 列A: 日付、列B: ADR終値、列C: USD/JPY、列D: 比率、列E: 想定価格=B×C×D。
- 列F: PTS終値(21:00〜23:30など時間を固定)。
- 列G: 乖離率=(F−E)/E。
- 列H: 翌日の寄付(現物)価格、列I: 利益率=(H−F)/F(買いの場合)。
- 乖離率≤−1%の行だけ抽出し、平均と勝率、最大DDを記録。
これで「割安シグナルの平均収束度合い」が把握できます。負けパターンの日付をクリックしてニュースが有ったか確認する癖を付けましょう。
現実の執行テクニック
- 板の厚い価格帯に置く:厚い板の一段上(買い)/一段下(売り)に置くと約定効率が改善。
- 分割:1回で全量を取ろうとせず、2〜3回に分ける。
- 成行回避:薄い時間帯の成行は危険。約定後に逆向きの跳ね返りが起きやすい。
イベント・リスク管理
- 決算・ガイダンス:決算発表直後の乖離は「真の情報」反映で、収束しないことが多い。回避推奨。
- 為替指標:米雇用統計やCPIなど、為替が動く日は様子見。
- 配当・権利落ち:理論価格に配当落ち分が絡むため、計算に注意。
サイズ設計(資金管理)
初心者は1銘柄ごとに口座資金の1〜3%を上限に。3銘柄以上に分散し、同時に同方向へ偏らないようにする。連敗時はサイズを自動で1段階落とすルールを紙に書いておくと暴走を防げます。
ケーススタディ(仮想データで流れを確認)
- 任意銘柄XのADRが$14.80、比率1:1、USD/JPY=150 → 想定価格=2,220円。
- PTSが2,180円まで売られている → 乖離率=(2,180−2,220)/2,220=−1.80%。
- 買い指値2,180円で約定。翌日寄り2,205円で決済 → +1.15%(手数料前)。
- 同日、為替は横ばい、ニュース無し → 典型的な収束パターン。
よくある失敗
- 決算またぎ:情報の質が違う日に「平均回帰」を期待してしまう。
- 比率の取り違え:1:0.25 と 4倍換算のミス。
- スリッページ軽視:板が薄い夜間に成行で飛ばし、期待値を壊す。
チェックリスト(実行前)
- 銘柄にADRがある/比率を確認した。
- 為替が急変していない。
- 本日・翌日に重要イベントがない。
- 乖離率の絶対値が±1%以上(初心者は買い方向のみ)。
- 手仕舞いルール(寄り決済 or 時間)を書面化した。
Q&A
Q. 完全な裁定ですか?
A. いいえ。制度・手数料・在庫・時間差があり、個人が完璧な裁定を組むのは現実的ではありません。本稿は収束“傾向”を統計的に使う短期手法です。
Q. 空売りは必須?
A. 初心者は不要。割安買い→翌日寄り決済から始め、勝率と執行精度を固めてから検討。
Q. どの時間に見る?
A. 米国の出来高が十分乗り、情報が一巡しやすい時間(NY午後)に観察。毎日同じ時刻で比較するとデータが安定します。
まとめ
ADR×PTSの乖離収束は、数式が簡単で再現性のある短期トレードです。まずは「買い方向だけ」「イベント日回避」「±1%超の乖離のみ」という安全側ルールで、小さく回し、スプレッドシートで自分の実績を見える化してください。1ヶ月の練習でも、約定の置き方・損切りの素早さ・時間帯の癖が掴めます。上達したら、売り方向や乖離レンジ別の分位最適化(閾値の微調整)へ進めば、リスクリワードをさらに磨けます。
コメント