本稿では、個人投資家でも実装できる「パッシブ指値」によるスプレッド捕捉戦略を、初歩から実務運用レベルまで体系的に解説します。成行で追いかけるのではなく、板の最優先気配(ベストビッド/ベストアスク)に自分の注文を並べ、約定したら極小利益で素早く手仕舞う。さらに、メイカー手数料優遇(場合によってはリベート)がある市場では、スプレッド利益に加えて手数料面の優位も積み上がります。小さく、速く、数を重ねて「負けにくい土俵」を作るのが目的です。
この戦略の狙いと前提
狙いは ①スプレッド捕捉 と ②メイカー優遇(負のメイカー手数料=リベートを含む) の二重取りです。短時間で小さな優位性を積み重ね、損大利小の逆を避けます。前提は以下の通りです。
- 価格・時間優先の板取引(リミット・オーダーブック)であること。
- メイカー/テイカーの手数料体系が存在し、メイカー側が優遇されるか少なくとも不利でないこと。
- 板の厚みと出来高が一定以上あり、スプレッドが過度に拡大しないこと。
対象は暗号資産の主要現物・先物、米株の一部市場、CFD/FXのECN型口座など、板で並べることができる市場です。国内株式現物の標準的な委託手数料体系ではメイカー・テイカーの区別が明確でない場合があるため、実装先は各自の口座条件を確認してください。
用語と仕組みの要点(初心者のための最短理解)
- ベストビッド/ベストアスク:最も高い買い気配と最も低い売り気配。
- スプレッド:ベストアスク − ベストビッド。戦略の主な原資。
- キュー(順番):同値の指値は「時間優先」で並ぶ。先に並ぶほど約定しやすい。
- メイカー/テイカー:板に流動性を提供する(メイカー)か、奪う(テイカー)か。メイカー優遇がある市場ではメイカーに手数料リベートが付くことがある。
- Post Only:成行化しないように、必ず板に並べてメイカーになる注文属性。
- IOC/FOK/GTC:有効期限の指定。IOCはできるだけ即時約定し残り取消、FOKは全量即時、GTCは取消まで有効。
- アドバースセレクション:自分が約定した直後に価格が逆行しやすい現象。板主導の戦略の最大の敵。
要するに「なるべく安全な位置に短時間だけ並び、約定したら即座に利確(または薄利撤退)する」。この単純さが初心者にも扱える理由です。
市場の選び方(チェックリスト)
- 手数料表:メイカー手数料 ≤ テイカー手数料。できればメイカーがマイナス(= リベート)。
- 平均スプレッド:常時 1〜3ティック程度の狭さで安定している。
- 板厚と出来高:一つ下の板階層まで十分な数量。1ティックで一気に飛ばない。
- API・注文属性:Post Only、キャンセル/修正が高速、残数量の部分約定に対応。
- 取引時間:ニュースや指標でスプレッドが崩れやすい時間帯を把握できる。
口座開設と初期設定(初心者向け)
一般的な流れは次の通りです。実際の手順は各社の案内に従ってください。
- 対象市場を決める(例:主要暗号資産の現物または先物)。
- 口座開設申請(本人確認、住所確認、2段階認証)。
- 手数料プランの選択(メイカー優遇の有無、割引条件)。
- 注文属性の確認(Post Only, Reduce Only, Time in Force など)。
- 入出金テスト(少額)。手数料と反映時間をメモ。
- 板情報ツールの準備(ブラウザUIまたはAPI対応ツール)。
エッジ(優位性)の源泉
1. スプレッド捕捉
ベストビッドへ買い指値を置き、約定後はベストアスク近辺で薄利の売り決済(または逆)。これだけで理論上はスプレッドの一部を回収できます。
2. メイカー優遇
メイカー手数料がテイカーより低い、あるいは負の手数料(リベート)の場合、同じ取引回数でも損益が底上げされます。
3. キュー位置の管理
同値の注文が多いと自分の順番(キュー位置)が後ろになり、約定確率が下がります。定期的に注文をキャンセル→再発注して先頭付近を確保する手法は効果的ですが、発注回数が増えるほど手数料や技術的負荷が上がるためバランスが重要です。
期待値の考え方(シンプルな式)
1トレード当たり期待値(EV)の近似:
EV ≈ p_fill × (spread_net) − p_adv × loss_when_adverse
p_fill
:自分の指値が約定する確率(時間内)。spread_net
:獲得スプレッド − 片道/往復手数料 + メイカーリベート(あれば)。p_adv
:約定直後に逆行する確率。loss_when_adverse
:逆行時の切り幅(ストップまたはタイムアウト撤退)。
初心者はまず「spread_net > 0 を安定的に確保」し、「p_adv を抑える撤退ルール」を磨くことに集中します。
具体的な発注ルール(テンプレート)
- 並べる位置:常にベスト気配に指値(買いはベストビッド、売りはベストアスク)。
- Post Only:必ず有効化。成行化しない。
- 数量:1回あたり最小サイズから開始。板厚・口座残高に応じて段階的に引き上げ。
- 利確:約定後、反対側ベスト気配に薄利指値(例:1〜2ティック)。
- タイムアウト撤退:一定秒数で未約定なら取消。イベント前後はしきい値を短縮。
- 逆行時撤退:不利方向にnティック進んだら即撤退(ストップ)。
- 在庫制限:最大建玉数と偏り制限(ネットロング/ショート上限)。
- ニュース回避:経済指標や発表の直前直後は一時停止。
実例シミュレーション(暗号資産・現物ペアの例)
仮に、平均スプレッドが 1 ティック、ティック価値が 0.01%、メイカー手数料 0.00%(または -0.01% のリベート)、テイカー 0.05% とします。
- 1回約定で理論上の獲得は ≈ スプレッド0.01% − 片道手数料(ほぼ0%) = 0.01% 前後。
- 1時間に20回、1日8時間で160回、勝率55%・平均利確0.01%・平均損失0.02%でも、EVはわずかにプラスになり得ます。
- ただし出来高低下やイベントでスプレッドが崩れると逆風に変わります。必ず停止ルールを実装してください。
リスクと回避策
アドバースセレクション
約定=良い約定とは限りません。素早い方向性の動きに取り残されると、小さな利を狙って大きな損を出します。対策は「時間制限」「逆行ストップ」「イベント回避」。
板薄・急変動
板の奥が薄いと、1ティックで一気に飛びます。スプレッドが広がったら即停止。
発注・取消の遅延
回線・端末・取引所側の遅延でキュー位置の維持が難しくなることがあります。安定した通信環境と軽量UIを使い、無駄な再発注を避けます。
資金管理(初心者向けの現実解)
- 1回のリスク:口座残高の0.1〜0.3%を上限にする。
- 日次ドローダウン制限:-1%で停止、翌日に再開。
- ロット拡大:3日連続で日次EVがプラスならロットを+20%する等のルール化。
バックテストと検証
理想は板(Level 2)履歴でのキュー再現ですが、初心者は簡易近似から始めます。
- 一定期間のティックデータを使い、各瞬間のスプレッドと出来高を記録。
- 自分の注文がベストに並んだと仮定し、約定確率 = 自分の前の数量 / 当該ティックでの出来高 を近似。
- タイムアウトや逆行ストップをルール化し、期待値を推計。
その後、可能なら板スナップショットを取得してキュー位置と部分約定を再生します。再現が難しければ、デモ口座や極小サイズで実運用のログを取り、統計的に評価してください。
オペレーションチェックリスト
- メイカー手数料とリベート条件を最新確認。
- Post Only を常時ON。意図せずテイカーにならない。
- イベントカレンダー(経済指標・主要発表)を確認。
- 在庫上限・日次損失上限を設定。
- ログ(約定、取消、スリッページ、勝率、EV)を日次で集計。
初心者がつまずくポイントと対処
- 「並べっぱなし」:注文の放置は厳禁。時間制限と再発注のしきい値を決める。
- 「イベント無視」:カレンダーを必ず確認。重要発表30分前後は休む。
- 「サイズ過多」:最小サイズから。勝っても急に増やさない。
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