同じ「買い」「売り」でも、クリックした価格で必ず約定するとは限りません。発注後に不利な価格で約定してしまう差――それがスリッページです。本稿は、現物・先物・永続先物・FX・DeFi(AMM)のそれぞれでスリッページが発生する仕組みを一気通貫で解説し、個人投資家が日々のトレードで現実的に低減するための実践フレームとチェックリストを提示します。最後に「小額→中額→大額」の順にコストがどう跳ね上がるのかを定量例で示し、あなたの執行ルールの叩き台にしていただけます。
スリッページとは何か――定義と分解
スリッページは「期待価格」と「実約定価格」の乖離です。期待価格は通常、発注瞬間の気配(ベストビッド/アスク、またはミッド)を指し、実約定価格は平均約定価格(アベレージフィル)です。差額は1取引あたりの直接コストであり、累積すると戦略の優位性を無効化します。
原因は大きく2つに分解できます。(1) 価格影響(マーケットインパクト):注文サイズが板やプールの流動性を動かす効果。(2) 執行遅延(レイテンシ):送信から約定までの遅延中に価格が変化する効果。さらにオンチェーンではMEVサンドイッチのような敵対的再配置が追加されます。
市場別の発生メカニズム
中央集権型現物/先物(CEX)
板は価格ごとに数量が積み上がります。成行買いはアスク側を上から消化し、複数ティックに跨ると平均買付単価が悪化します。薄い時間帯/板では特に顕著です。高速板では「見えない流動性(内部化/ダーク/アイスバーグ)」がある一方、約定保証はありません。
永続先物と資金調達
永続ではフェアバリュー(指数価格±ベーシス)に収斂する力が働きます。短期のスリッページは板厚に依存しますが、建玉偏りが強いと指標価格乖離→清算連鎖→板蒸発という二次効果が起きやすく、同サイズでもイベント時は滑りやすくなります。
FX
店頭相対の性質が強く、LP(リクイディティプロバイダ)のクオート更新間隔やNFP・CPIなどの指標時にリクオート/約定拒否が発生しうるため、成行・逆指値は滑りやすいです。仲値やロンドン・NYのクロス時間は板が厚くなりやすく、実務的にはスリッページが小さくなる傾向です。
DeFi(AMM)
一定積の式 x*y=k (定数積AMM) や、v3系の集中流動性で価格曲線が決まります。取引サイズが大きいほど自分で価格を動かすため、価格影響 = 関数形でほぼ決まります。さらにブロック内での再配置(MEV)が加わるため、スリッページ許容が大きすぎるとサンドイッチ攻撃の的になります。
数値で見る:板厚とスリッページ
例:BTC/USDT、ミッド100,000、最良アスク100,010、アスク側の板が以下だとします。
- 100,010に1 BTC、100,020に2 BTC、100,030に2 BTC、100,050に5 BTC
5 BTCを成行買いすると、1+2+2=5で平均約定価格は { (1*100010 + 2*100020 + 2*100030) / 5 } = 100,022。ミッド対でのスリッページは+22。ティックバイティックでは小さく見えても、合計サイズで見ると無視できません。
AMMの価格影響:直感と近似
定数積AMMで資産A/Bのプールが均衡(比率1:1)で総額10,000,000ドル、A価格1,000ドル、Aの流動性がおよそ5,000単位あるとします。Aを100単位買うと、最終価格は曲線に沿って上昇し、平均約定はスポットより不利になります。小額 s に対する価格影響は、近似的に impact ≈ s / (2*流動性) と捉えられます。
集中流動性では「現在価格付近の有効流動性」に依存し、離れた価格帯では流動性がゼロになり得ます。可用流動性の計測が実務のカギです。
スリッページ許容(トレランス)の設定
オンチェーンでは0.1%〜0.5%がよく使われますが、トークンの板/プール・ガス・MEV環境で最適値は変わります。許容を大きくすると失敗(リバート)は減りますが、サンドイッチ搾取の余地が拡大します。逆に小さすぎると失敗が増え、ガスの無駄遣いになります。
- 小型トークン:0.3%〜1.0%を試験。都度最小化。
- 大型トークン:0.05%〜0.3%を基準。イベント時は一時的に拡大。
指値・成行・OCO:どれで抑える?
指値は価格影響をゼロにはしません(大量に置くと自分で板を作り価格を動かす)が、最悪価格を制御できます。成行は速度優先で、イベント突入前のポジション取りなど時間価値が高い場面で検討。OCOはエグジット時のスリッページ(走り出した後追い)を抑えます。使い分けの原則は「時間価値 vs 価格確実性」。
執行アルゴの実務:アイスバーグ/TWAP/VWAP
大口を一括で投げると価格影響が跳ねます。アイスバーグで見せ数量を小さくし、TWAPで時間分散、VWAPで出来高の厚いタイミングにウエイトを寄せます。特定の板にぶつけず、流動性の厚いプール・複数取引所をスマートルーティングするだけでもコストは目に見えて低下します。
時間帯・ボラティリティ・イベント管理
東京時間の早朝・週末は板が薄く、同じサイズでも滑りやすい。一方でロンドン/NYの重なる時間は厚くなりやすい。CPI・雇用統計・FOMC・半減期などのイベント前後は、指値でも食われてから走るため、撤退ルール(キャンセル/追随)とサイズ縮小が有効です。
先物特有の落とし穴:清算と板蒸発
清算連鎖は瞬間的な流動性蒸発を招きます。逆指値のトリガーが集中した価格帯では、成行で一斉にぶつかるため、想定以上に滑ることがあります。実務ではトリガー価格を分散し、数量も分割、さらに指値追従(トレールリミット)を組み合わせると過度な滑りを抑えられます。
オンチェーンの追加コスト:ガスとMEV
ブロックに入るまでの待ち時間が価格変動リスクを増やします。ガスをケチると取り込みが遅れ、結果的に滑りが増えることも。逆に高すぎるガスは固定費を押し上げます。優先度手数料の最小化、バンドル送信やプライベートメモプールの活用はサンドイッチ抑止に有効です。
プレトレード見積もり:現場用テンプレ
発注前に、次の4点だけを秒で確認します。
- 可用流動性:板/プールの同一方向で自分のサイズは何ティック/何bps動くか。
- 時間帯とイベント:今は厚い時間か?主要指標は?
- 注文設計:指値/成行/分割/アルゴ。最悪価格(スリッページ許容)は?
- 総コスト:手数料+資金調達(金利)+ガス(+MEV) ≈ 何bps?
比較ミニ実験:サイズと総コスト
仮定:BTC/USDT、ミッド100,000、手数料片道0.05%、板はアスク側で10, 20, 40, 80, 160と幾何級数的に厚くなる典型ケース。オンチェーンはガス20USD固定として概算。
| 発注サイズ | 想定スリッページ | 手数料 | 固定費(ガス等) | 合計(概算) |
|---|---|---|---|---|
| 1,000 USD | ≈ 1〜2 bps | 5 bps | 0〜20 USD | 6〜25 bps 相当 |
| 10,000 USD | ≈ 5〜10 bps | 5 bps | 0〜20 USD | 10〜15 bps + 固定費 |
| 50,000 USD | ≈ 20〜50 bps | 5 bps | 0〜20 USD | 25〜55 bps + 固定費 |
ポイントはサイズが増えるほど非線形に悪化すること。分割の効果はここから直感できます。
サイズ分割と最悪価格の制御
「総額をN分割し、各回のスリッページ上限をx bpsに制約。未約定はキャンセルし、イベント越えは持ち越さない」などの機械的ルールが有効です。人間の裁量で追いかけるほど、平均取得単価は悪化しやすいからです。
ケーススタディ:やってはいけない3パターン
- ニュース直後の成行全弾:思惑方向に走る中、板が薄いので平均単価が急悪化。
- 小型トークンで許容1〜2%:サンドイッチ攻撃の温床になり、必要以上に高値掴み。
- ガス節約で低プライオリティ:取り込み遅延→価格が遠ざかり、結果的に滑る。
Q&A:よくある誤解
Q. 指値ならスリッページゼロ?
A. 指値は「最悪価格」を制約しますが、出来る/出来ないの不確実性とヒット後の追随コストは残ります。大量の指値を置けば自分で価格を動かすことにも注意。
Q. スリッページ許容は小さいほど良い?
A. 小さすぎると失敗が増え固定費(ガス)が嵩みます。総コスト最小の観点で最適化が必要です。
Q. スキャルピングでは無視できる?
A. 収益幅が小さいほど、1回の数bpsが期待値を直撃します。むしろ最重視領域です。
実装テンプレ:1クリックで使える執行ルール(例)
- 原則は指値。イベント前後と板が厚い時間のみ成行許容。
- 1回の発注上限は「可用流動性の5〜10%」まで。超える場合はTWAP。
- オンチェーンはトレランス0.2%を基準に、板/プールを見て都度最小化。
- 小型銘柄はプライベートメモプールまたはバンドル送信を優先。
- 逆指値は価格帯を分散(3〜5本)、数量も逓減配分。
ミニチートシート
- サイズを分割、時間も分散、市場も分散(ルーティング)。
- 「最悪価格」を事前に数値で決めてからクリック。
- イベントスケジュールを横に置き、厚い時間以外は無理をしない。
- オンチェーンはガス×許容の二変数最適化+MEV対策をセットで。
まとめ
スリッページは「見えにくいが確実に積み上がるコスト」です。概念理解→可用流動性の測定→注文設計→アルゴ分割→イベント管理という順序を踏めば、勝率や損益の改善はすぐに体感できます。あなたの戦略にあわせて、本稿のテンプレを最小限カスタムし、総コスト(bps)での可視化から始めてください。


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